訪問いただきありがとうございます。
いらっしゃいませ。
今日は
2025年1月17日。
1995年1月17日
5時46分に発生した
阪神淡路大震災から30年です。
1995(平成7)年1月17日
私は前の職場(大阪モノレール)で
宿直勤務をしており
朝9時までの勤務予定でした。
私は吹田市万博記念公園にある事務所にて
被災しました。
大きな揺れを感じましたが
じっと待つだけで
何もすることができず
ただ
周りの状況を眺めることしかできませんでした。
当時私は
モノレールの車両を除く
全設備の保守を担当しており
被災当初は
不具合を一つひとつ処理していこうと
車で駅に向かいました。
事務所の棚や書類がひっくり返るなか
最初に車で向かったのが
千里中央駅でした。
千里中央駅では
分岐器(ポイント)の故障が発生していましたが
応急的に復旧し
柴原駅に向かいました。
千里中央駅から
柴原駅に向かう道路(中央環状線)が
片側3車線あるのですが
ほぼストップしていました。
私が乗っていた車は
緊急用車両でしたので
パトライト(赤色灯)と警報音を鳴らしながら
3車線の間をすり抜けるように
柴原駅に向かいました。
(後に後輩から
「あの運転は神技でしたよ!」と褒められ?ました)
柴原駅は
千里中央駅から2駅西側(神戸寄り)にある駅ですが
どうにかして
柴原駅に着いた私は
駅設備の損傷状況を見て
「これはダメだ」と思いました。
「これはダメだ」とは
「少なくとも今日は運行(復旧)ができない」
と直感で感じました。
「これはダメだ」と
開き直れた私が次に取った行動は
母の安否を確認することでした。
5時46分に被災し
母に連絡しようと思えたのは
7時30分ごろでした。
現在のように
一人ひとりに携帯電話があった時代ではありません。
柴原駅の公衆電話から
母(自宅)に電話をかけ
母の無事が確認できました。
タンスが倒れてきて
とても危険な状況だったと聞きましたが
とにかく
生きていることが確認できたので
ホッとしたことを覚えています。
そして
あの日から30年・・・
あらためて
記憶を記録にして
後世に伝えることが大切だと思います。
何を思うか
どう思うかは
人それぞれです。
ただ
忘れてはいけない
伝えなくてはいけない
それが
私の使命でもあります。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
最高の人生。
今日も感謝。
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