「近鉄バファローズ」
この名前を聞くと、胸の奥が少しだけ熱くなります。
すでにこの世に存在しないプロ野球チーム――それでも私は、いまもなおこのチームが大好きです。そして永遠に・・・
なぜここまで惹かれるのか、自分でもうまく説明できません。
それくらい、生活の一部どころか、私の人生そのものに「近鉄バファローズ」は入り込んでいました。
消えたチームなのに、忘れられない――
「近鉄バファローズ」という名前を聞いて、心がざわつく人。
それはきっと、昭和〜平成のはざまで、その球団を愛していた人たちだと思います。
人気もなかったし、強くもなかった・・・
けれど、だからこそ「自分たちだけが知っている特別な存在」だった。
今回はそんな“永遠のローカル球団”への、個人的なラブレターをお届けします。
そんな私の原点とも言える思い出の第2回は
日生球場の「スタンド編」。
あの凸凹した外野席を覚えているあなたも、知らないあなたも、ちょっとだけ寄り道して読んでみてください。
あの頃のワクワクを、あなたに・・・。
私の「近鉄愛」を込めたラブレター第1回はこちら
「えっ!ホームランと同時に、ナイヤガラの滝!」
こんにちは。
今回も、かつて存在したプロ野球チーム「近鉄バファローズ」と、思い出の聖地「日生球場」の話を続けます。
外野席は、まさかの“凸凹の石”
まずは衝撃の座席から。
日生球場の外野席――
そこには、今のような快適なベンチなど存在しませんでした。
むき出しのコンクリート。しかも、表面には大小さまざまな石が混ざってゴツゴツ。
一応、長椅子の形をしてはいますが、座ればすぐにお尻が痛くなる…。
私は密かにこう呼んでいます。
「日本一お尻が痛い座席」
しかしあの凸凹のコンクリート、建築の専門家から見たらなんて呼ぶんでしょう。
とにかく、座るたびに「痛っ」と言ってしまうような、愛すべき(?)座席でした。
指定席との“格差”と、ゆるい自由
ちなみに、内野席はもう少しマシで、プラスチック製の長椅子が並んでいました。
今でこそ、球場といえば指定席が基本ですが、日生球場は内外野席が全て自由席でした。
そして、「指定席」と「内野自由席」の境には、鉄製の柵が設置されていたのですが――
この柵の間隔(幅)が、まちまちだったんです。
私はというと……
少し広めの間隔のところを見つけて、身体を横にしてスルリ。
ちゃっかり指定席に入り込む、なんてことをよくやっていました。
私にとっては、全席自由席でした。
今なら注意されるかもしれませんが、
当時は、誰も怒りませんでした。
それがまた、日生球場らしい“ゆるさ”でもありました。
トイレも、売店も切符売り場も、必要最低限
トイレも、必要最低限。
売店も、必要最低限。
切符売り場も、必要最低限。
球場グルメなんて、もちろんありません。
そして、どこでもタバコOK。
(昭和ですね…。)
決して快適とはいえない球場だったけれど、
私にとっては、たくさんの思い出が詰まった、特別な場所でした。
むしろ、その不便さや雑さこそが、いま思えば心地よかったのかもしれません。
次回は「応援」について
日生球場には、もうひとつの“名物”がありました。
それは、にぎやかな応援団。
次回は、「応援団」の思い出をテーマにお送りします。
「にぎやかすぎるくらい」が、ちょうど良かったあの頃の空気を、もう一度。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
最高の人生。
今日も感謝。
コメントを残す